スウェーデン語で「ママのマンナを集めろ」。深い意味はないらしい。
サイケデリック、フラワームーブメントの色濃い1969年、SAMLA MAMMAS MANNA (以下SMM)はとHasse
Bruniusson (Ds)、Lars Krantz (B.)、Lars Hollmer (key)、Hennrik O:berg
(conga, per)の4人で結成された。Silence Recordsから1st Samla Lammas Manna(1970)を発表する。
その後Henrikの脱退、Coste Apetrea (g)の加入を経て、2nd Måltid(1973)をリリース。ジャズ、民謡、舞踊、ロック、サイケ、プログレ、手当たり次第に放り込んだおもちゃ箱と化したそのサウンドはアヴァンギャルドというには親しみ易いが、安易な先入観や思い入れを飄々と受け流す柔軟さを感じさせる。当時左翼寄りだったスウェーデンの音楽シーンの中で、ユニークの地位を築いたバンドは精力的にツアーを続けながら
Klossa Knapitatet (1974)、Gregory Allan FitzPatrickとの連名アルバム
Snorungarnas Symfoni (1976)と順調に作品を発表するが、Costeが脱退してしまう。
翌年Eino Haapala(g)が加入し、1978年にはZAMLA MAMMAZ MANNA名前を変えて2枚組アルバム
For Older Beginners / The Mystery of Popular Music を発表。「For
Older〜」は即興演奏のみ、「The Mystery〜」は小作品と18分の大曲という変則的な構成。見開きのレコードジャケットの背にはご丁寧に切取線が印刷されていた。本気とも冗談とも付かない子供のイタズラのような即興演奏と小曲は「怪作」の名にふさわしいが、"The
Fate"の存在をはずしてはこのアルバムに申し訳ない。どこか哀愁を帯びたメロディーと力強いバッキング、おどろおどろしい中間部、とZMMの魅力を凝縮した名曲である。
1978年頃からZMMはイギリスのバンドHENRY COWが提唱したRIO (Rock In Opposition:反対派ロック宣言。音楽産業のコマーシャリズムから音楽創作の自由を守ろうという思想の元で形成されたミュージシャンのネットワーク)との交流が始まる。演奏力の高さとオリジナリティがヨーロッパ中から認められ、Fred
Frith(HENRY COW)のソロアルバム「Gravity」(1980) のレコーディングに参加したり、RIO所属のバンドとヨーロッパツアーをしている。
1980年にドラマーHasseが脱退。Vilgot Hanssonが加入し5thアルバム Family
Cracks を発表。硬派なジャズロックアルバムとしてユーロロックファンに人気が高い作品だ。このアルバムを最後にZMMは解体し、HollmerとHaapalaはVon
Zamlaを結成、Hollmerは並行して、トラッド色の強いソロ作品を制作している。
90年代に入り、Hasse、Hollmer、Krantz、CosteのメンバーでSMMを再結成。現地で年に数回ライブを行うペースで活動を続け、1999年に
Kaka をリリースした。往年の作品に比べても遜色ない演奏力と楽曲は多くのファンを喜ばせたが、再びHasseがバンドを離れてしまった。
今回の来日公演ではオリジナルメンバーのHasse Bruniussonではなく、世界のアンダーグラウンドシーンでも評価が高い、吉田達也がドラマーを務める。すでにこのメンバーでのライブは数回行なわれていて、心配はまったくない。アヴァンギャルド、アンダーグラウンドというと構える人が多いと思うが、表現に困ったときに便利な表現だから使っているだけで、難しくもなんでもない。ようするに、ラジオやテレビから流れてくる決まり切った音楽形態からずれている、それだけだ。すでに彼らのライブを体験した人達は、笑いが絶えず、MCを含めて何が飛び出てくるかわからないびっくり箱のようなライブだという。きっと楽しいに違いない。
キーボーディスト、Lars HollmerはSMM以外にも、自宅のスタジオChikenhouseから良質なトラッド/アヴァンギャルド系のソロ作品を発表し続けている。アコーディオンで奏でられる小曲"Boeves
Psalm"は多くの人に愛されているという。1999年にはAndetag (1997) でスウェーデンのグラミー賞を受賞。2000年、2001年には来日公演を行い、日本のミュージシャンとの交流を深め、2002年4月にはその結晶とも言うべきアルバム、SOLA
Lars Hollmer's Global Home Projectがリリースされた。
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